2023月8月28日
こんにちは、シナプス代表の竹内です。
最近ですが観光バスの転落事故で、乗っていた高校生一人が腰の骨を折る重体というニュースがありました。もちろん乗っていた高校生に非はなく、ただただ不運の事故でした。あと身近では知人が、信号待ちの停車中に後ろから追突されるという「もらい事故」に合いました。追突した加害者側に100%の過失がある事故です。ただゆっくりした追突で知人に怪我はなく、不幸中の幸いで済みました。これも不運な事故でした。
この知人の場合、本人に怪我はなく、車も全額相手の負担で修理されて元通りになります。なので、ああ不運だったね、で済ませられます。でもバスの事故に遭遇した高校生は、もしかしたら後遺症が残るかもしれません。もし最悪後遺症が残った時、ああ不運だったね、では納得できないでしょう。過失のあるバス運転手やバス会社をどんなに責めても、またどんなに賠償があっても、やっぱり不運だったねでは済まないはずです。なので、そのもらい事故の知人は運良く怪我はありませんでしたが、不運だったねで終わらせて良いのだろうか?と思うんです。もちろん知人に落ち度がある!という話ではないです。ただ自分に落ち度があろうがなかろうが、結果として自分の身に災厄が降りかかり、自分が困るような事態になるのであれば、ただ不運だった、全部相手の責任だ、自分に何もできることはない、で終わらせてしまうのは、単なる思考停止ではないかと。
転落事故の高校生のケースでは、じゃあこの高校生に何ができたか?を考えて学びを引き出すのは、簡単ではないです。バスに乗るときはシートベルトをしておこう…くらいかもしれません。そういう意味では、個別の事象から学びを得るというよりは、”これは単なる不運だから対策を思考しない”という思考停止の姿勢に対する疑問といったほうが、言いたいことの本質かもしれません。
ごく日常の仕事でも”不運”はあります。タイミングが悪かった、渋滞していた、お客様がいなかった、お客様の機嫌が悪かった、天気が悪かった、競合が強かった、上司に恵まれなかった、風邪を引いた、新型コロナがあった、などなど。もしかしたら、ほとんど不運だらけです。考えてみれば、仕事以外のプライベートも”不運”だらけです。家族が病気になったとか。でもこれら不運を全て、不運だったね仕方がない、で済ませられないはずです。そんなことをすれば自分の人生、全て他人任せになってしまいます。
これほど極端ではないにしても、力強く自分で人生を切り開く人とそうでない人の違いは、この不運の境界線の差なのかなとも思います。自分で切り開くタイプの人は、多くの事象を不運で片付けずに、自分ごととして「じゃあどうする?」を積極的に考える人。そうでないタイプの人は、多くの事象を早々に「不運だった、仕方がない。」「不運だった、責任は相手にある。」と結論付けて思考と行動を停止する人。この両者のタイプに明確な境界線はなくグラデーションです。またどちらが良い/悪いという話でもなく、人それぞれの趣味嗜好かもしれません。
自分の趣味嗜好で言えば、自分で人生を切り開くタイプにあこがれます。なのであらゆる不運、いや不運だけではなくあらゆる出来事を自分ごととして、自分にできること、すべきだったことを常に考えていきたいと思っています。とは言ってもですが、一番自覚するのは、自分はほとんど幸運でここまできたなということです。幸運はもちろんうれしいんですが、その反面、思考停止になりがちです。見た目、うまくいってしまうので。その点は要注意です。まあ不運はいやですが。