2024月10月14日
こんにちは、シナプス代表の竹内です。
昨日の日曜日は、小学校の運動会が鹿児島県内各地で行われていたようです。絶好の秋晴れでちょっと暑いくらい、運動会にはうってつけの日でした。朝8時くらいからお父さん・お母さんがたくさんの荷物を抱えて学校に向かい、その姿も楽しそうです。小学校の運動会に行ったのはもう10年前なので、ちょっとうらやましかったです。
とは言ったものの、運動会に良い思い出はほぼありません。それは自分の運動神経が悪い、”運動音痴”だったからです。運動会の花形競技といえばクラス対抗リレーでしょうか。けっこう担任の先生も真剣で、何度も試走を繰り返し、クラス内で厳格に選抜されます。児童同士の話し合いも真剣です。あ、もちろん私は関係ありません。ただ眺めているだけです。そして本番の、自信に満ちたクラス代表の疾走、抜きつ抜かれつ、女の子の声援。例え勝てなくても、転んだとしても、悔し泣きする姿にも「かっこいいなー」と思ったものでした。私は関係ありませんが。
私に関係がある競技は、全員参加の徒競走です。これは何と言っても、気が重い!運動会のずっと前の日から、重い!友だちや家族は見ているし、そしてその徒競走の結果も、白組・赤組の勝敗を決める点数に加算されます。もちろん!というか、徒競走の戦績は小学校6年間、ほぼビリだった記憶があります。鮮明に覚えているのは、4年生のとき。この1回だけですが、6人中4位になりました。この4位に観戦した母親の喜びようったら、もう拍手喝采です。自分も嬉しかった!まあ4位なんですが。
最近の運動会は、今年もそうなのか分かりませんが、競技で順位をつけないとのことです。確かに考えてみれば、運動会で順位をつけることに、必然性は無い気もします。そもそも運動会は教育上必要なのか?も疑問です。大人になって走ることはほとんどないですし。子どもの特性に応じてその競技を極めようというのなら、クラブ活動で十分かも。
さらに最近の運動会は、午前中で終わるらしいです。それは親の負担を考えてとのことですが、先生たちの負担もバカになりません。たまたま昨日日曜日の晩に居酒屋に行ったのですが、隣の部屋では偶然、先生たちが打ち上げをしていました。その盛り上がりようったら!その打ち上げも、運動会が午前中に終わればこそ、です。運動会の存在意義を問い直してもいいのかもしれません。
自分の子ども時代の運動会の影響を今になって考えてみると、間違いなく、自己肯定感は下がったと思います。運動音痴という劣等感を持ちました。ただ運動会が無ければ劣等感はないかというとそうでもなく、体育の授業の跳び箱や、ドッジボール、鬼ごっこ的な遊びなど、運動音痴を自覚させられる場面はいくらでもあります。運動会がなくなったところで自分が運動音痴でなくなることはなく、その事実を突きつけられる場面が一つ減ったに過ぎません。逆に効用?というと、運動音痴の子どものつらさがよく分かるというものでしょうか。例えばアメトーーク!の毎年の特番で「運動神経悪い芸人」があります。確かにおもしろいですが、自分も運動神経が悪いので、笑ったことはほぼないです。かっこよく言うと、人の痛みが分かるというか。あとたかが4位でも家族総出で嬉しい!というのは、運動音痴ならではの高揚感です。あとは運動音痴という劣等感の裏返しとして、せめて勉強をがんばるしかない!とちょっと思いました。結果的に頑張ったかどうかはさておき…。そう考えると運動会はいやでいやで仕方がなかったですが、いいこともあったのか。
この前社員から、「休養学」という本を教えてもらいました。まだ全部読んでいないのですが、疲れたから休む…が、必ずしも正解ではないということでした。そして疲労を上回る活力を蓄える、得ることが重要らしいです。そういえばちょっと前に、レジリエンスー精神的回復力-という言葉が流行りました。これもストレスを上回る回復力を持つという、同じようなことです。運動会というストレスの機会を減らすこともいいですが、子も親も先生も、運動会というストレスに耐える力を培うという視点も、子供の将来には重要かもしれません。