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田上天神の地名の由来を探る

世界中の皆様おはようございますこんにちはこんばんは、コミュニケーションデザイン課の福山と申します。

プロローグ

今回の話は、鹿児島市にお住いの方限定の話になってしまいそうで申し訳無いです。

皆さん、田上天神という地名はご存じでしょうか。

鹿児島中央駅から車で10分程の距離にあり、中州陸橋を武岡トンネル側に進み、トンネルの二つ手前の交差点を左に曲がって所謂永吉入佐鹿児島線を進みますと、しばらくしたらコンビニや飲食店、ケータイショップ等が道路沿いに多く立ち並び、鹿児島市中心部と紫原・西陵・山田・皇徳寺・星ヶ峯といった巨大住宅地などとの間を行き交う車でにぎわう地域に出てきます。この辺一帯のことを、俗称「田上天神」と言います。住所で言えば田上2丁目3丁目をすっぽり包む付近です。
この辺のケータイショップさんや飲食店さんの店舗名も、「田上店」ではなく「田上天神店」と名付けられている事から、この俗称が日常的に広く使われているというのが分かります。

ということで、今回はこの田上天神についてのお話です。

田上天神の「天神」って?

皆さん、この俗称にある「天神」って何を指しているか分かりますか? 普通だったら神社のこと(大宰府天満宮を中心とした天神様のこと、藤川天神や天神菅原神社が鹿児島では有名)を指すと思いますよね。
そうなんです。天神という名前が付けられている地域には、かつての日本に於いてはほぼ必ずといって良いほどに天神様のお社があったのです。ちなみに、博多の繁華街として有名な「天神」も、元々はその地に鎮座している水鏡天満宮から名前がとられています。だけど、田上天神はどうでしょうか? 無いんですねこの付近に、神社が。天神様どころかそれなりの規模の神社すらないんです。これは一体全体どうしたことなんでしょうか。

恐らく、かつてはあったんでしょう。この地域のどこかに。じゃあ、どこに?

調べました、インターネットで。しかし、この広大なインターネットの海原において田上天神の情報は全く出てきませんでした。全くです。様々な方々が鹿児島の地理・歴史を調査し、そしてブログなどで公開されているのをよく見ますが、田上天神だけは全く出てきません。なんででしょう。

調べてみよう

ということで、インターネットでも調べられないこともあるんだなと早々に見切りをつけ、誰もかつて調査したことないことなら、私がその一番手になってやろうと自分の足を使って調べてみることにしました。

でもその前に、もう一度インターネットを使ってみます。スタンフォード大学のHPで公開されている、明治43年当時の日本の古地図を開き、当時の田上天神がどのような地形になっていたのかを調べてみました。しかし、そこにも神社らしき建物は見当たりませんでしたが、その代わりに周囲の地名で「佛迫(ブッサコ)」なる場所を発見。現代語訳すると「仏の谷」。江戸末期までは神様も仏様も同じ存在、いわゆる神仏習合であったため、ここである可能性が現時点では高いですね。

早速現地調査。現地に向かい、住民の方々から片っ端から話を伺いましたが、どうやらこの付近に祀られているのは「天神様」ではなく「毘沙門天」だそうで、田上天神の地名の由来にはなりえない事が分かりました。まあ、確かに田上天神とは川を隔てているので、ちょっと違和感はありましたが…残念です。

ただ、この地は「佛迫」の名前に違わず、竹林深い谷間にひっそりと佇む毘沙門天様は何とも荘厳な雰囲気の場所で、中央駅に近い場所でもこんな場所があるというのを知れたことは、自分にとっては大きな収穫でした。住民の皆様ご協力ありがとうございました。

…やはりインターネットでも無理だったので、今度こそ見切りをつけ本物の古地図を探しに市立図書館へ行ってみることに。

古地図を手あたり次第引っ張り出し片っ端から探してみましたが、やはり明治以降の地図にはその姿を確認することが出来ませんでいた。しかし、その中で江戸末期の古地図を見つけましたので、これで当時の田上天神付近を調べてみると、ありました。地図にしっかりと「天神」という文字と社の絵が書いてありました。場所でいえば、現在セブンイレブン田上3丁目店がある「田上共同墓地前」交差点から延びて紫原へ続くいわゆる旧道沿い。これが所謂「田上天神」の名前の由来なんでしょう。

ここでいったんまとめます。

  • 江戸末期までは田上天神付近には確かに「天神」と呼ばれる神社が存在した。
  • しかし、遅くとも明治43年にはその姿を消してしまった。

ここまでは分かりました。ようやくその存在を確認することが出来たことで、私の中の悶々とした気持ちはちょこっとだけ晴れたような気がしますが、しかし、ここで新たな疑問が生まれる訳です。

つまり…

  • 具体的にどこに鎮座していたのか。痕跡は残っているのか。
  • なぜその姿を消してしまったのか。

この二つの疑問のうちの一つ「姿を消した」理由は大体想像がつきます。おそらくは日露戦争を発端とする「神社合祀」によるものでしょう。詳細はリンク先をご覧ください。(もしかしたら建部神社に合祀されたとか?)

そして残るもう一つの疑問ですが、おおよその場所は把握できたので後は現場で足を使ってしらみつぶしに調べていくのみ。一番大好きなフィールドワークです。

田上天神の場所が明らかに…!

いざ田上天神。こちらでも足を使ってしらみつぶしに調査をしていきます。

その土地のことなら何でも知ってるだろう、と勝手な思い込みで地元の不動産屋さん何店舗かに飛び込んで訊いてみましたが、いずれのお店でもご存じないとのこと。ただし、この付近に「天神寺之下」というバス停があり、その昔山の中腹に寺があった名残だというまた別の側面で興味を惹かれる情報をいただきました。もしかして天神の別当寺だったのでしょうか。後に分かるのですが、そのお寺は現在の「株式会社上野城の本社」の場所にあり、名を護生寺といいます。かつては、島津義弘公建立の馬頭観音堂も建立されていたそうです。

次に、この付近を歩いている高齢者の方にもお尋ねしたのですが、なかなか皆様ご存じの方はいらっしゃらなかったです。しかし中には私と同様の疑問をお持ちの方もいらっしゃり、町内会長にそのことを訊かれた事もあるのだそう。

なかなか手がかりが見つからないまま、休みの日にはこの周辺を探索すること1ヶ月ほど、ついにその時は訪れました。

田上天神から紫原へ上る旧道を登っている際に、ふと目線を家屋と家屋の間にやってみると、何やら石像のようなものを発見。もしやと思い近づいてみてみると、住宅が集まる場所には不釣り合いな板碑がぽつんと立っていたのです。これは…もしや天神の名残では? たまたま近くを歩いていた方に訊いてみましたが、由来は不明だそうです。その時に撮影した写真がこちらです。

※背景に個人宅が映り込んだのでぼかし処理をしています。

※住宅地の中にあるので詳細な場所は伏せさせていただきます。

住宅地には似つかわしくない、おそらく何百年という年季を感じる古めかしい板碑が2基。場所も江戸末期の古地図と一致します。これぞ…あの天神の名残では無いでしょうか。

私個人では確証が持てなかったので、この写真を持って鹿児島市教育委員会へ行ってみてご意見をうかがってみたところ、以下のようなご回答をいただきました。

  • 恐らくは天神の境内に建てられていた板碑だろう。この場所に板碑があったというのは把握していなかった。
  • 向かって右側の板碑には2基の墓石が彫られている。もしかしたらご夫婦のお墓なのかも知れない。
  • この地域の宅地造営時になぜ取り壊されなかったのだろうか。

と、いうことで「お墨付き」をいただけたとまでは言いませんが、おかげでこの板碑こそが「この地域が田上天神と呼ばれる所以」であるという強い確信を持つことが出来ました。

後日、教育委員会の方から詳細な調査結果をいただきました。A4用紙2枚の長文なので仔細は省略しますが、要約するとこの地に天神があった可能性が高い、とのことでした。また、この板碑2基それぞれに名前を付けてくださいました。

  • 向かって右側「五輪塔二連駒形板碑」
  • 左側「笠塔駒形板碑」

これで、この板碑の存在が公式に記録として残ることになり、天神の在処も証明されることにもなりました。よかったですね。

エピローグ

これまでインターネットの海原にも無かった田上天神の由来の記録を、こうやって残すことが出来たことを大変嬉しく思います。もし今後田上天神の由来をインターネットで調べる方がいらっしゃったら、この記事がお役に立つことでしょう。

よくわかってないんですが、これが今流行りのDXってやつですかね? 多分違いますね。