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秀吉が通った道

こんにちは、営業課の菊永です。

みなさま、大河ドラマの「どうする家康」はご覧になられていますか?

現在、第40話が終了した段階ですが、個人的にこれまでの大河ドラマと違い、
想像していた武将のイメージが全く異なり、全体的にフィクションな内容に
正直、萎えておりました。

しかしながら、築山殿(正室)や嫡男信康の自害への流れ、石川数正の出奔、
小牧・長久手の戦いの秀吉の妹・朝日姫の婚姻への流れ、
そしてこれまでにないほど癖の強い織田信長や秀吉には
定説と思われていた内容と異なり、一次史料から「実はこういう解釈もある」と
思いのほか腑に落ち理解しやすい内容です。

つくづく軍記ものの情報の知識だったと毎回、驚きの毎日です。

少々残念なのは、わたくし鹿児島人にとっては、島津氏の登場を心待ちにしておりますが、
今回、どうする家康では全く出てきません。

そこで端折られていた九州征伐について記載したいと思います。
皆さま、鹿児島に「秀吉が通った道」があるのはご存じでしょうか。

豊臣秀吉が薩摩川内市(泰平寺)にて島津義久と会見し島津氏の降伏してから
帰っていくまでの道で、薩摩川内市からさつま町、伊佐市を通って水俣に抜けるルートです。

インターネットの情報になりますが、「関白秀吉軍の薩摩侵攻の足跡」
という考古学調査の情報をもとに現地に行ってみました。

※岡山理科大学学術リポジトリより資料抜粋
資料

■天堂ヶ尾 関白陣跡
こちらは関白秀吉と大口地頭新納忠元を会見した陣営の跡で、
見晴らしのよい場所です。(車で行けます)

天

どのような思いで秀吉と会見したか、この景色をみてどう思ったかを想像するだけで
楽しいです。

■秀吉が腰かけた石
伊佐市大口にある民家の敷地です。
お住まいの二反田さまにお声がけしたところご丁寧にご案内いただきました。

いりぐち

天童ケ尾での会見の帰路、送別に出迎えた忠元を見て籠を止め,陣扇(指揮などをするのに用いた扇)を与えた際に腰掛けたとされる石
だそうです。

腰掛石

「関白秀吉軍の薩摩侵攻の足跡」では、まだまだ史跡ポイントが数多くありますが、
少しずつ足を延ばして史跡巡り完遂したいです。